その昔には屠場があり、牛骨粉の再処理工場はいまでもあり、皮革の町工場もあり、製靴業も散在し、老朽化した公営住宅があり、何より部落解放運動がある。その様子は明らかに「部落」だった。しかし、表札に二つの姓を併記する家が幾つもあり、朽ちかけた長屋に住む高齢者の話す言葉には強い訛りがあった。そして、行き交う人々は挨拶を交わしあうわけでもなく、どことなくよそよそしい。それは「部落」とは違う光景だった。
その西成の「部落」にも、同和対策事業の誘いはあり、クリアランスな環境改善の試みもなされたが、住民はあまり乗り気ではないように見え、よその部落とは対照的に、地域は沈滞しているように見えた。そこに、「密集市街地」を縦軸に、「住民参加」を横軸にした「まちづくり」が起こったのは20世紀の最後の頃だった。西成の「部落」は、同和対策事業とは「違う道」を主張した。以来約10年、これから記す「百話」を刻むほどの隆盛があった。
しかし、隆盛は10年しか続かず、「まちづくり」は急ブレーキをかけ停止した。原因が同和対策事業だったのは皮肉だった。功罪ある同和対策事業の「罪」が露呈し、すべての「類似」事業は「特別」の振るいにかけられ、西成の部落の「違う道」も同罪と宣告されたのだ。以来、行政と住民の両翼から、行政の翼が欠け、片翼のまちづくりへと航路を変えた。それから10年弱、西成区北西部のまちづくりは苦闘してきた。いっぽう、隣のまちでは、「西成特区構想」が発表され、20年前の「部落」を想起させる興奮が芽生えている。いずれも、主人公のいない西成の「百年の物語」の各章でしかない。
ここに記す「まちづくり百話」は、少し先に走った「部落」の営みが、「特区のまち」の参考になればと思い立ったものだが、行き交う人々がどこかよそよそしいまちで、時々に紡ぎ合う人々の営みが、都市(まち)に「溶けて」、生きる糧(かて)になっていく様を描いてみたいとも思ったからである。願わくば「部落」が、あるいは「運動」が、そうした目線から見直されたなら、予期せぬ幸いでもある。
ちなみに、「百姓」とは農業のことではなく「百(無数)の仕事」を意味することは、歴史家の網野善彦さんの書に学んだが、「百話」も「多様」を意図し、多様であるが故の「参加」を言い表そうと腐心した。