第1話 焼土の街から

「西成まちづくり百話」

焼土の街から

部落解放同盟西成支部が『焼土の街から』という運動史を出版したのは、1993年の2月28日で、支部結成40周年を記念したものだった。1992年の8月に大阪市は「西成環境整備プロジェクト」を設置し、いよいよ本格的に、「都市再開発手法と同和対策を組み合わせた新しい手法で、全国最大規模の被差別部落西成の総合計画が開始された」(本文より)その時に発行された。

『焼土の街から』は、-西浜地区の人口が急増し、大正の後半から周辺に人口が拡大し、西は十三間堀川をへだてて隣接する津守村の一部に、南は西浜地区に隣接する北開、中開、南開、出城あたりまでのびていきました。さらに南に通称「赤壁」(鶴見橋北通り付近)にも多数の部落出身者が流入しました。まさに、「今宮町、中開・鶴見橋・釜ヶ崎その他には特殊部落民多数居住するも、その数明らかにならず」といわれる状況だったのです-と、西成の部落の生成を描いて、解放運動への道程を記した。

「あのころ、そのとき」と題した出口弥兵衛さんという古老の聞き取りも面白い。現在の芦原自動車教習所あたりに現在の(株)ニッタの前身新田帯革があり、多数の職工がいたが、部落の人が雇われたという話は聞いたことがなかった。-新田は別もんだったんやろうねえ。それに西浜の人たちは貧乏しながらも自分で生活を築き、独自の力で生きてきたのじゃないやろうかなあ。

-下道(したみち-浪速生野病院の一つ南筋ぐらい)の近くには夜店がありましてな、夜なべ仕事したあとなんかには、私らもよく食べに行きました。夜店といっても、道端に簡単に店を出すのとちゃいまっせ。屋台じゃなしに、ちゃんと店をかまえた食堂とか粕汁屋とか、そんな店が軒を並べていました。

-奉公人というと、大阪で代表的なのは船場の繊維問屋の奉公人ですわな。親方や先輩にいじめられて「へい、へい」と腰を低くしてメシもろくに食わしてもらえんようなイメージが定着していますが、西浜は違いましたでえ。親方の態度も全然違う・・・奉公人も一人前扱いでしたよ。

(株)ニッタの創業者新田長次郎という人は、愛媛県の出身で、松山商科大学(現在の松山大学)の創始者でもある。出口さんは「聞いたことがない」と証言されたが、現に新田は部落の人を忌避したのか、また、そうであるなら何故だったのかは定かではない。しかし、「新田は別もん」として生業(なりわい)を建てた西浜、夜店に象徴される活気や、イメージとはちょっと違う徒弟関係に、浪速と西成の部落の近代を想像させて、興味ある聞き取りになっている。

この冊子は、評判が良く、増刷されて、今でも西成支部が販売している。

資料:焼土の街から

カテゴリー: 未分類   タグ:   この投稿のパーマリンク

コメントは受け付けていません。