第12話 西成のまちづくりとレンダリング産業

「西成のまちづくり100話」

西成のまちづくりとレンダリング産業

「レンダリング(rendering)」ってご存じですか?
英語の辞書を引くと、「翻訳」や「表現」、「演出」などの語義に続いて、後のほうに「(脂肪を煮澄ます)精製」といった説明が出てきます。アメリカの食肉加工業から生まれた用語法で、牛や豚などの脂肪や骨を加工処理して、油脂をはじめ各種の有用成分を精製分離し、食品用や工業用原材料、肥料・飼料などを製造する業をレンダリング産業と呼んでいます。日本では「化製」と言っていますが、この用語は、明治8年(1875)に京都の益井らが「斃牛馬化製法」を作成して、府下の斃牛馬の処理を任せるよう府に願い出ているのが早い使用例で、この時期に死んだ牛馬の工業的利用を業とする発想とともに発明された、当時としてはハイカラな言葉だったのではないかと思われます。

西成地区は、浪速区の西浜部落が拡張する中で大正期に形成された新しい部落です。西浜は当時日本を代表する皮革の集散地で、この産業を支えるために近畿地方を中心に多くの人が集まり市街地が拡張していきました。そして、早くは1887年に今の長橋3丁目付近に民営の屠畜場が西浜の人たちによって設立され、1906年に屠場法が制定されてからは、10年に今宮村営屠場が、39年には替わって大阪市立屠畜場が津守に建設され、こうした屠畜場の周辺産業として化製業も派生します。戦時中の企業統合を経て、戦後は再び7~8軒の化製場が操業を開始。一時は活況を呈するものの、なにわ筋の開通などもあって、1960年代から廃業が続き、84年には南港に新食肉市場が開設されて、津守の屠畜場も廃止されます。90年代には、地区の化製場は3軒が残るだけになっていました。

西成地区には、かつては大きな紡績工場や食肉工場があり、皮革、木工、その他さまざまな地場の中小企業がひしめいていました。しかし今日、地場産業と呼べるようなものは、製靴業がかろうじて命脈を保ち、あとは細々ながら化製業が残るのみと言ってもいいでしょう。まちづくりにとって地場産業の育成は必須の課題です。ところが、レンダリングは加工処理中に発生する臭気がひどく、それが地区のイメージを悪くして差別を助長するという問題を抱えていました。もちろん各事業者も脱臭装置などの対策はとるものの、抜本的な対策は1事業者では不可能で、集約化による無公害工場の建設が望まれていました。また、事業者としても原料の入手難や競合の激化、後継者の心配などもあり、工場の近代化や製品開発など事業の転換に迫られていました。

西成の化製業は、現在では精肉業者やハム工場などから出る骨の処理が大きな比重を占めており、食肉産業の廃棄物処理を担ういわば清掃事業の範疇に入る役割も果たしています。そこで、西成地区街づくり委員会が中心となり、悪臭公害と差別助長という事態の改善への取り組みを事業者と行政に対してねばり強く要請。国や大阪府、大阪市の理解と協力を取りつける中で、「公設置、民営」方式を打ち出し、事業者の協業化による産業集約化の道を選択しました。また、そこには、集約化され、近代化された地区の化製業が、「魅力的な地場産業」に転換されていくという期待も込められていました。肥料や食品原材料といった一次加工のみでなく、付加価値を増す二次加工、三次加工を可能にする研究と技術取得を重ねれば、「西成グルメブランド」としての食品指向事業や骨粉を活用した「ボーンチャイナ」事業(津守焼)などの展開も夢ではないと考えられたからです。

集約化工場は2001年に竣工。さわやかなブルー・グリーンの外観が目を引き、今や地域のランドマークともなっています。しかし、大きな看板はなく、何をしている建物なのか知る人は少ないのではないかと思われます。はたして“臭いものには蓋”を越え得たのか、まだまだ評価は先になりそうです。

資料:西成のまちづくりとレンダリング産業

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