第27話 西成公園研究会と野宿者問題

「西成のまちづくり100話」

西成公園研究会と野宿者問題

 1996年5月、西成地区街づくり委員会と北津守連合町会、津守連合町会等によって「西成公園研究会」が発足しました。前年の1995年1月17日阪神大震災が勃発した際、「阪神大震災復興支援西成市民協議会」を結成しました。そして、現地への復興支援活動を行うとともに、西成の防災のまちづくり要望をまとめ、区民2万人の署名をわずか一か月で集め、大阪市に提出しました。とくに、要望の中で、災害時の緊急広域避難場所である西成公園の機能健全化は焦眉の課題でしたので、住民自身の話し合いを進めようと研究会の発足となったわけです。
 そして、公園地下部分への緊急時貯水施設の敷設と地上部分のリフレッシュ工事を柱とする西成公園再整備計画がまとめられたのは、住民参加によるもので画期的なことでした。しかし、当時、西成公園にはおよそ200人もの野宿者がテント生活を送っていました。不況が長引き、釜ヶ崎地区周辺でダンボールにくるまれた路上生活しながら、日雇い仕事を待ち続けていた労働者が、長期にわたって仕事にありつけないものだから、公園等にテントを張って生活する「野宿者問題」が深刻になっていたことが背景にありました。
 以前から、周辺住民の中には、「子供も自由に遊ばせることができない」「広域避難所なのにまったく機能していない」等不満と不安で、野宿者との緊張関係が高まってきていました。街づくり委員会は、野宿者問題を理由に公園整備を遅らせ、防災計画を立ち往生させるのでは住民の理解は得られないと、公園整備計画と野宿者支援を同時に進めるよう、大阪市に再三要望しました。大阪市は、「公園機能の健全化」「広域避難機能の確保」という責務を認識しながらも、現実の野宿者の人権尊重との間のジレンマで、1997年10月着工予定が、12月に延期、さらには「冬の寒い時機に野宿者の協力は得られない」等、工事着工は大幅に遅れてしまいました。
 街づくり委員会は、人権への配慮から翌1998年3月着工に合意し、その間、野宿者の自立支援策の検討、個別の野宿生活者の状況把握のための「個別相談会」の開催、周辺住民と野宿者支援団体の相互理解を得るための「懇談会」を大阪市に求めるとともに、街づくり委員会や設立間もない社会福祉法人・ヒューマンライツ福祉協会も相談活動などに参加していきました。
 こうしたさまざまな努力を経て、1998年3月西成公園再整備工事が始まりました。

資料:西成公園研究会と野宿者問題

 

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