第8話 阪神大震災と復興支援西成市民協議会

「西成のまちづくり100話」

阪神大震災と復興支援西成市民協議会

1995年1月17日、阪神大震災が発生するや、西成区でも支援活動が組織されました。西成地区街づくり委員会と、部落解放同盟西成支部や西成区ボランティアバンク、長橋、北津守、松之宮連合町会などの呼びかけで「阪神大震災復興支援西成市民協議会(松岡徹代表)」が発足、1月25日から被災地への「デイサービス活動」が始められました。被災地の高齢者や障害者を車で迎えに行き、西成でお風呂や食事を提供し、また被災地に送る活動で、被災地への道路は大渋滞のため寝ずの活動となりました。
2月21日には、西成から200人の多彩なボランティアが西宮市立総合福祉センターに炊き出しに出かけました。なかでも注目を集めたのが「手話できます」と背中とお腹のゼッケンに大書した手話ボランティアで、ろうあ者の方々が次々訪れられ、随分とお役にたちました。地域の障害者会館ができて、ほんとに良かったと痛感させる出来事でした。
そのセンターに、その日から「西成市民協議会デイサービス活動」の看板を設置、西宮市のヘルパーさんや看護師さんが西成市民協議会のビラを被災者に届け、支援を求める高齢者や障害者が次々と西成へ電話をかけてきました。なかでも、西成から西宮市に嫁いだ女性は、「ふるさとのビラ」に感動され、次々と声掛けをしてくれました。西成に住む彼女のご両親も、西成区ボランティアバンクの会員さんで、支援活動に熱心に取り組まれていました。こうした西成発案の被災地送迎デイサービス活動は、3月31日まで続けられ、大変好評でした。これも、西成のまちづくりのなかで福祉活動が盛り上がりはじめ、多くの技能を持った人が育っていたからできたことでした。
西成区内の被害は、家屋の半壊196世帯、一部損壊574世帯でしたが、防災のまちづくりへの機運は高まり、3月1日には、西成市民協議会が、広域避難所、防災公園、不燃化促進区域での住宅建替支援制度、防災自治組織など七項目からなる「西成区緊急防災計画案」を提案し、署名運動を展開し、3月29日には集まった2万筆以上の署名を大阪市市民局安全対策課に提出しました。後に、広域避難所である西成公園のリフレッシュ計画などは、この時の提案が実を結んだものでした。また、大阪市は被災者への市営住宅の提供を表明し、西成区の同和向け公営住宅でもいち早く協力しました。
西成地区街づくり委員会が発足したのが1994年7月で、約半年後に起こった大震災に、「西成」は俊敏に、かつ創造的に対応し、そして、住民参加のまちづくりの重要性を急速に広げていきました。この復興支援からまちづくりに参画し始める住民も多数生まれてきました。

資料:阪神大震災と復興支援西成市民協議会

 

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第7話 サンフランシスコへ福祉視察

「西成のまちづくり100話」

サンフランシスコへ福祉視察

西成地区街づくり委員会は、1996年7月6日から11日まで、サンフランシスコ在住のリチャード・スカッフさんを招き、講演会やまちのウォッチングなどを取り組みました。 スカッフさんは、当時52歳で、1978年に事故で大けがをし、車いすで生活するようになりました。障害者への差別や暮らしにくい環境を痛感し、81年には町会議員にもなり、87年にサンフランシスコ市にまちづくりの提言を行い、89年には同市の職員になり、アクセス諮問委員会のコーディネーターを務めておられました。いまでこそ、日本にも乙武洋匡さんのような障害者が活躍していますが、当時はまだまで、スカッフさんの行動や言動は、とても新鮮で、まちづくりの刺激になりました。 そして、1996年10月21日から30日の10日間、街づくり委員会の福祉視察団が、サンフランシスコ市、バークレー市、サクラメント市を視察しました。スカッフさんが案内してくれました。そこで、初めて、バリアフリーを超えた「ユニバーサルデザイン」というまちづくり理論を知りました。公園の遊具などには、「障害の有無を問わず、すべてのこども達がチャレンジできる」という着想でのデザインに驚きました。1985年頃に、ロナルド・メイスという障害者が提唱した「すべての人々(障害者だけでなく)に優しいデザイン」というユニバーサルデザインは、1990年の全米障害者法(ADA)制定もあって、急速に普及されましたが、「西成」が訪れたアメリカは、まだ、その冷めやらぬ頃でした。 また、企業でも行政でもない非営利団体が建設した集合住宅を訪問しましたが、老朽化したり、低所得者しか入れない公営住宅に比べ、コンセントの位置や、バスルームの手摺り、キッチン、ガスレンジなど様々な工夫がなされ、かつ適正な家賃の住宅を見て、ユニバーサルデザインの面白さに共感しました。まだNPO法すら知らない時(1999年制定)でしたから、公とも、民とも違う事業主体に驚きました。 さらに、自治体の「アクセス諮問委員会」の様子も見学し、障害当事者が、さまざまな施設や建物、道路などの企画や点検や参画していることを知りました。また、障害者の自立生活運動の拠点CILを訪問し、全米障害者法を実現したアメリカの障害当事者運動を間近に学びました。このCIL運動を提唱したエド・ロバーツという障害者の母校(大学)がUCバークレーで、そこも訪問し、自由のメッカと言われた大学のキャンパスで、障害者運動を学びました。

資料:サンフランシスコへ福祉視察

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第6話 まちづくり活動支援制度を実現

「西成のまちづくり100話」

まちづくり活動支援制度を実現

大阪市は、1997年の12月に「大阪市まちづくり活動支援制度」をつくりました。まちづくりの整備手法や制度などの適用がまだはっきりとしないまちづくりの初期の段階で、身近なまちの整備・改善及び保全等に向けてのまちづくり活動を行う団体(大阪市がまちづくり推進団体ととして認定)に対して、活動費の助成や専門家の派遣を行う制度です。

この制度で、地域の実情に応じた住み良いまちづくりを市民と市が協力して推進し、住民等による自発的なまちづくり活動を支援するものでした。現在まで、15年で43のまちづくり団体に助成が行われましたが、トップの助成団体は西成地区街づくり委員会北津守地区構想策定部会」で、その後、「今宮駅前構想部会」「なにわ筋沿道整備構想部会」「夜店通り活性化整備構想部会」と、次々と西成地区街づくり委員会傘下の地域団体が助成制度の対象になっていきました。

阪神大震災が1995年で、復興支援ボランティア活動の活躍が注目されていた頃でしたし、NPO法の制定も間近で(1999年)、この頃、市民活動の育成に大きな関心が寄せられていました。西成地区のような密集市街地は、震災の被害も甚大であり、高齢者等が多いことを考えると、行政だけではとても安全を保障できない状況であることが、共通の認識になっていたからでもありました。
また、1997年には、大阪市は「商店街空店舗活用支援制度」も新設しましたが、この制度の最初の適用を受けたのが鶴見橋商店街で、6番街に「ナイスプラザ」という店舗がオープンしました。これは、街づくり委員会の活動から生まれた(株)ナイスが、まちづくりを応援する住宅リフォームセンターと、皮革工房「シ・パラン」を開店させたものでした。

何よりも「阪神大震災」という悲しい出来事があり、人々が自発的に支援に立ち上がったこと。そこから「ボランティア」など市民の役割がけっして小さくないこと。また「密集市街地」など、長年の行政課題が解決していないのは、行政任せだったからではないのかという反省も生まれたこと。そして、NPOなどの、住民が参加できる方法が紹介され始めたことなどの諸要因が重なって、西成地区のまちづくりが活発化し始めました。そして、それが大阪市全体にも広がり始めたのです。それが、まちづくり支援の諸制度となって、いまに引き継がれています。

資料:まちづくり活動支援制度

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