第14話 今宮駅前北開・中開地区まちづくり構想

「西成のまちづくり100話」

今宮駅前北開・中開地区まちづくり構想

“北津守まちづくり構想”に半年遅れで1998年春にスタートしたのが“今宮駅前北開・中開地区まちづくり構想”です。
構想策定のきっかけは、関西本線の駅としてあまり賑わいのなかったJR今宮駅が立体化により環状線の高架駅として整備されるようになったことで、これまで出入口もなく駅裏であった北開・中開地区が駅前となり西成区の新しい玄関口として生まれ変わることに期待が集まりました。それまでの北開・中開地区は鉄道利用上の利便が悪いだけではなく、鉄道と幹線道路によって周辺地区と分断されたなかに老朽住宅や工場、倉庫などが混在し、駅前立地にはほど遠い状況にありました。また中小規模の未利用地が点在していました。したがって、まちづくりの最大の目標は、いかにして今宮駅を西成区の玄関口として広く認知してもらえるようにするかというところにあり、そのために、駅前らしいにぎわいのある施設づくりや土地利用の整理、老朽住宅の解消、駅につながる魅力的な駅前道路づくり、などがテーマとなりました。にぎわい施設の建設や未利用地の集約による土地利用の整理等は、将来の土地利用構想を示す中で、ゆっくりと誘導していくことになりますが、地区を象徴するハーモニカ長屋と言われた老朽住宅は市営住宅と一体に建て替えられました。また、魅力的な駅前道路づくりは地区内の住人と大阪市から派遣された専門家が何度もワークショップを開いて検討しました。ワークショップでは、まず駅前道路として整備する道路を既存の道路の中から選択しました。次に、その道路を魅力的な駅前道路にするために何が必要か考えました。人と車の棲み分けはどうする? 歩いて楽しい道にするためにはどうすれば? など、いろいろ議論し、提案内容が実現可能かどうかについてはその都度、大阪市とも協議しながら「今宮駅前コミュニティ道路」計画案としてまとめ上げました。計画案では、歩行者の安全のために車は一方通行とし、道路を蛇行させることで車のスピードを制限、歩行者には視覚的な楽しさと緑や休憩の空間を提供する。また、様々なストリートファニチュアを設置、路面の舗装材料や色彩についても玄関口にふさわしい仕様とし、歩行者空間の魅力づくりをはかる。ことなどが盛り込まれています。計画案は大阪市により一部変更が施されていますが、ほとんど原案に近い内容で「今宮駅前コミュニティ道路」として実現されています。

資料:今宮駅前まちづくり構想

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第13話 北津守まちづくり構想

「西成のまちづくり100話」

北津守まちづくり構想

先に紹介した、大阪市の「まちづくり活動支援制度」を最初に活用して1997年から2000年までの3年間で取り組んだのが“北津守まちづくり構想”です。
北津守地区は、かつては木津川沿いの造船工場など多くの工場が立地し、たくさんの労働者でにぎわったものですが、産業構造の変化などで地区から多くの工場が撤退し、まちの活気を失いました。そして、それと符合してまちには多くの課題が生まれました。地区内の人口減少、なかでも労働人口の大幅な減少と、それにともなう少子高齢化は地区の人口バランスを大きく欠くことになりました。また撤退した工場の跡地はそのまま未利用地として残り、地区内の商工業の活力は失われました。そこに従来から課題とされてきた地区内道路ネットワークの整備や住環境の改善、教育・医療・福祉施設の充実、自然環境の回復などがまちづくりのテーマとなりました。
構想策定部会では、これらのまちの課題をタウンウォッチングやその後の意見交換でしっかりと確認したうえで、テーマ毎に何度もワークショップを実施して将来構想の検討を進めました。大規模な工場跡地の活用については、敷地の広さや建物の大きさを現地で自分の体で確認しながら施設や住宅などの配置を検討したり、鉄道敷きの跡地についてはそれぞれの夢をイメージした公園を想い描いたりしました。また、老朽住宅の共同建替えや、多様な住宅づくりについて具体的に様々なプランの検討も行いました。
このようにして策定されたまちづくり構想では、地区中心部は、地区コミュニティの中心として人々が集いふれあえる「コミュニティゾーン(いきいきゾーン)」、その北側及び東側幹線道路(新なにわ筋)沿いは、地区の商業・業務等のにぎわいの中心となる「商業・業務・住宅複合ゾーン(にぎわい・交流ゾーン)」、この両ゾーンの北・南・東側は、多様な住宅で子供からお年寄りまで安心して暮らせる「住宅ゾーン(やすらぎゾーン)」、そして地区北端部は、公園や農園などの緑と住宅が共生する「グリーンアメニティゾーン(緑のアメニティゾーン)」、地区西端の木津川東岸道路沿道部は、木津川の水と緑を取り込んだ遊歩道や住宅からなる「ウォーターフロントアメニティゾーン(水と緑のアメニティゾーン)」、という5つのゾーン別構想が示されました。
また、道路ネットワークについても、地区内の通過交通を排除したうえでの広域的な自動車用動線と、地区全域をカバーする安全で快適な歩行ルートづくりによる歩行者用動線を併せたネットワークが構想されています。

資料:北津守まちづくり構想

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第12話 西成のまちづくりとレンダリング産業

「西成のまちづくり100話」

西成のまちづくりとレンダリング産業

「レンダリング(rendering)」ってご存じですか?
英語の辞書を引くと、「翻訳」や「表現」、「演出」などの語義に続いて、後のほうに「(脂肪を煮澄ます)精製」といった説明が出てきます。アメリカの食肉加工業から生まれた用語法で、牛や豚などの脂肪や骨を加工処理して、油脂をはじめ各種の有用成分を精製分離し、食品用や工業用原材料、肥料・飼料などを製造する業をレンダリング産業と呼んでいます。日本では「化製」と言っていますが、この用語は、明治8年(1875)に京都の益井らが「斃牛馬化製法」を作成して、府下の斃牛馬の処理を任せるよう府に願い出ているのが早い使用例で、この時期に死んだ牛馬の工業的利用を業とする発想とともに発明された、当時としてはハイカラな言葉だったのではないかと思われます。

西成地区は、浪速区の西浜部落が拡張する中で大正期に形成された新しい部落です。西浜は当時日本を代表する皮革の集散地で、この産業を支えるために近畿地方を中心に多くの人が集まり市街地が拡張していきました。そして、早くは1887年に今の長橋3丁目付近に民営の屠畜場が西浜の人たちによって設立され、1906年に屠場法が制定されてからは、10年に今宮村営屠場が、39年には替わって大阪市立屠畜場が津守に建設され、こうした屠畜場の周辺産業として化製業も派生します。戦時中の企業統合を経て、戦後は再び7~8軒の化製場が操業を開始。一時は活況を呈するものの、なにわ筋の開通などもあって、1960年代から廃業が続き、84年には南港に新食肉市場が開設されて、津守の屠畜場も廃止されます。90年代には、地区の化製場は3軒が残るだけになっていました。

西成地区には、かつては大きな紡績工場や食肉工場があり、皮革、木工、その他さまざまな地場の中小企業がひしめいていました。しかし今日、地場産業と呼べるようなものは、製靴業がかろうじて命脈を保ち、あとは細々ながら化製業が残るのみと言ってもいいでしょう。まちづくりにとって地場産業の育成は必須の課題です。ところが、レンダリングは加工処理中に発生する臭気がひどく、それが地区のイメージを悪くして差別を助長するという問題を抱えていました。もちろん各事業者も脱臭装置などの対策はとるものの、抜本的な対策は1事業者では不可能で、集約化による無公害工場の建設が望まれていました。また、事業者としても原料の入手難や競合の激化、後継者の心配などもあり、工場の近代化や製品開発など事業の転換に迫られていました。

西成の化製業は、現在では精肉業者やハム工場などから出る骨の処理が大きな比重を占めており、食肉産業の廃棄物処理を担ういわば清掃事業の範疇に入る役割も果たしています。そこで、西成地区街づくり委員会が中心となり、悪臭公害と差別助長という事態の改善への取り組みを事業者と行政に対してねばり強く要請。国や大阪府、大阪市の理解と協力を取りつける中で、「公設置、民営」方式を打ち出し、事業者の協業化による産業集約化の道を選択しました。また、そこには、集約化され、近代化された地区の化製業が、「魅力的な地場産業」に転換されていくという期待も込められていました。肥料や食品原材料といった一次加工のみでなく、付加価値を増す二次加工、三次加工を可能にする研究と技術取得を重ねれば、「西成グルメブランド」としての食品指向事業や骨粉を活用した「ボーンチャイナ」事業(津守焼)などの展開も夢ではないと考えられたからです。

集約化工場は2001年に竣工。さわやかなブルー・グリーンの外観が目を引き、今や地域のランドマークともなっています。しかし、大きな看板はなく、何をしている建物なのか知る人は少ないのではないかと思われます。はたして“臭いものには蓋”を越え得たのか、まだまだ評価は先になりそうです。

資料:西成のまちづくりとレンダリング産業

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